ウルフドッグを飼うこと



 写真は、「わし」が数年前日本の友人の持つケンネルの一角に住み着いて制作活動をしていた時に、そこで飼育されていたオオカミ犬と撮ったものです。ジャーマンシェパードとオオカミをベースにしたハイブリッドで、大きな体格に反して性質はとても奥手で用心深く、見知らぬ人からはスキあらば逃げ出そうとする極めて「オオカミ犬らしい」個体でした。

 今なにげなく「オオカミ犬らしい」と書きながら思いだしたのは、この写真を撮った時、しかし、オオカミ犬というのはオオカミとイヌから生れ出でたにも関わらず、オオカミともイヌとも異質な存在なように感じたことです。野生のいきものであり(例え飼育下にあっても)私達人間との関わりをミニマムにしようと努力するオオカミ達と、人間と共に生きる事を好み、イヌ族の世界にあって重大なボディサインである「リーダーとのアイコンタクト」をも積極的に行い、それによって脳から幸せホルモンさえ分泌してしまうイヌの間には、姿形はよく似て居ても、なにか隔絶とした境界線が存在するような気がします。

 「オオカミ犬」というのは野生動物と、一万年以上の時をかけて人類との共同生活に特化・順応したイヌと言うピース(作品)といえるふたつの動物を、興味本位に混ぜ合わせる行為のつまるところです。研ぎ澄まされた野生と人への強い親和性を無作為にミックスしようとするのは、「きれいな色になりそうだから」と水彩絵の具と油絵具を混ぜることに近いかもしれません。時には奇跡的に調和のとれた個体が生れることもあるかも知れないけれど、ひとつの個体の中にマーブル状に遍在するイヌとオオカミの性質は、多くの場合、彼らを不可思議な生き物に変えてしまいます。

 自分が今まで見たオオカミ犬達は(そんなに数は多くないけれど)、オオカミの血のパーセンテージに関わらず、兄弟同士でもない限り一頭一頭姿や性格もまちまちで、その気質を理解するのにはたくさんの時間が必要なように思えました。ひとつきほど前に北海道で、本来の飼い主の留守中飼われていたオオカミ犬の世話をしていた女性が命を落とされるという大変痛ましい事件が報道されたのが記憶に新しいと思うけれど、長年のオオカミ犬ブリーダーで、世間のいう所の「有識者」だった被害者の方の知識をもってしても、彼らのダイナミズムを予測することは困難だったのかな、という感想をもちました。




 今日のブログにはオオカミ犬の存在に対する倫理とか、それを飼育することの是非についてとやかく言おうという目的で書いているのではないんです。オオカミ犬はきれいだし、かっこいいし、存在としておもしろいし、それに「オオカミ(みたいな犬)を意のままにしたい」という欲望自体は、過去数千年にわたって「自然」「野生」を支配下に置こうと苦闘してきた人類としてはしごくナチュラルなものと言えます。

 ただ例のニュースをきっかけに、自分なりに興味を持って、オオカミ犬を飼育している人の手記やブログ等を読んでみたところ、僭越ながらオオカミ犬を「適切な飼い方をしているなあ」「犬と人が素晴らしい関係を築いているなあ」と思えた飼育者というのが世間にほんの一握り、いや、一つまみにも満たないのだという現状を知りました。

 見る写真、見る写真、フェンスで囲まれたコンクリートや、地面むき出しの所にしいた薄汚れたベニヤ板の上で、ひとり孤独に寝そべっている犬達がいる一方で、「社会化」されて様々な場所を連れまわされ、まるでファッションアイテムのような扱いを受けながら日々を生きているような個体達も多く、すこし気の毒に思いました。もちろん中には性格的にそういう生活を享受出来る個体も居ると思いますが、そんな生き生きとした表情をしたオオカミ犬はごく少数派のように感じられました。

 私個人は、彼らの多くに共通する気質を考えたら、どこかのどかな緑のある広々とした敷地でとりたてて家族以外と親しくしたり、芸をすることをとくに強いられることなく、家を守り、家族だけを愛しながら、静かに生きていくのが自然な、彼らのしあわせなのではないかと思います。飼う人間の方も本気でオオカミ犬が好きで家族にしたいのならば、「家のあまったスペースに運動場と犬舎を作って」とかいうことでお茶を濁さず、田舎の方へ行って広い土地を買い、敷地を囲い、自分の生活の全てを彼らと共に楽しむ、くらいの気持ちで臨むべきではないでしょうか。

 犬とオオカミは似て非なる動物ですが、「自分の家族とリーダーに対する深い愛情」はおなじです。オオカミ犬を飼う時、自分の飼っているいきものが全身全霊をかけて寄り添ってくるのを、飼育者は100%受けて立つべきだし、そうすることが出来る環境を準備する事も、単なるヒトの好奇心が生んだ産物達への「責任を全うする」ということの一環ではないかと思います。





0 件のコメント:

コメントを投稿